深叢寺について
 高島藩主 諏訪頼水より、原村新田(現原村中新田)は慶長十五年(1610)、開拓村として正規に承認された。
そのわずか八年後 元和四年(1618)に寺が開創され、当時は「福寿山 新相寺」と号した。村人はこぞって檀徒となり、総檀徒をもって開基とした。

 「新相寺」の開山となったのは賢道智弘和尚である。
賢道は、武田信玄ゆかりの寺「恵林寺」(山梨県塩山市)の住持 快川紹喜(大通智勝国師)に学んだとされる僧で、寛和五年(1642)「甲州街道を北に越へんとこの岳麓の地を通過し、一宿を乞ふて泊するや知縁を得、錫を止める」ことになったという。

 賢道が入住して間もなくのこと、二代藩主諏訪忠恒が鷹狩のあとにこの寺に立ち寄り、寺が御射山社の地ににあることと、四方草むらであることから「御射山 深叢寺」と改称した。
また、寺維持のための寺尾根一帯の土地と開拓費用を寄進し、諏訪藩の紋章を寺紋とすることを許された。
以来深叢寺は諏訪忠恒を中興開基とし、現在に至る。

トップページに戻る

◆深叢寺の歴史